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泉平の歴史

今より三百年位前の横浜はと云えば、遠残の海に本牧岬より野毛浦に向って象の鼻の様に突き出した砂州の上に、戸数にして七・八十戸、人口五・六百人ほどの半農半漁の一寒村で、今の野毛山の下まで海が迫り、伊勢佐木町も吉田町も当時はまだ海の底でした。

あの大名行列の歩いた東海道は神奈川宿(今の神奈川台町)から入江を大きく西に迁回して、白砂青松と青い海を眺め進んだものです。
入江に漁どる白帆の小舟、松林と畑を点在する人家、干網、そして遠くに富士山を望み、絵の様に美しくのどかな村でした。その入江を江戸の豪商吉田勘兵衛の努力で干拓が進められましたが、まだ僅かでした。

ペリーの黒船来航以来慌てた幕府は日米修好条約を結び、横浜開港となり急ピッチで入江を埋立て堀割川となって関内、関外に分けて吉田橋を架け、どうやら町となり、貿易も興り地方から集った生糸商人、仲買人、外国人で、賑わってきました。

その頃江戸の札差し(大名相手に米の売買商)泉屋平佐衛門は、機を見て横浜に移り掘割川の土手で葦ず張りの屋台に人夫商人相手の江戸前寿司で大いに評判をとり、又二代目は高野山参詣の祈伝授されたいなり寿しを商い繁昌したと伝えられています。

三代目は明治中頃横浜寿し組合設立起人の一人として、功績ありと云われ、その後数代にもわたって関東大震災や食料統制にもめげず頑張り、古いのれんと伝統の味を守り、戦後発展礎となりました。尚、泉平の井桁のマークは札差しの時佳友家に気に入られ、使用を許されたと云われます。 何卆 今後共皆様のご愛願を頂きます様よろしくお願い申し上げます。

店主 敬白

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昭和初期(15年)

昭和中期(50年頃)